「古典は本当に必要なのか」シンポジウムの肯定派、否定派が合意できそうなこと

「古典は本当に必要なのか」シンポジウムで後半セッションの司会をした大阪大学飯倉洋一氏がシンポジウムの簡易なまとめをブログに投稿した。

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この投稿内容と、シンポジウム後、私が調べたことを通じて考えたことがあるので書いてみる。

飯倉氏による古典教育の再定義

このブログエントリの中で、飯倉氏は古典教育の再定義を行っている。
要約すると、以下のようなものであると認識した。

  • 古文文法を学ぶ古典科目を「現代文を理解するためのもの」と位置づける
  • 古文文法と現代文法は連続しており、古典文法を学ぶことで現代文法をより理解できるようになる
  • 源氏物語などの中古作品、徒然草や擬古文を読むにはややこしい文法が必要であり、優先度は低い(選択にすべき)
  • 古典は文章が重層的にできているものが多く、特に和歌がそうである。和歌を学ぶことは、国語力の向上につながる
  • 漢文訓読で、抽象概念を言語化する造語力を学べる

上記のようなことを学ぶための「新しい古典科目」を新設し、従来の中古作品を題材にした「従来の古典科目」は選択とすべきではないか(優先度は低い)、という提案である。

新学習指導要領の「言語文化」科目

シンポジウムで私が肯定派の先生方に質問したとき、カリキュラムに関しての私の認識を求められた。
私は学習指導要領の改訂で具体的にどのように国語のカリキュラムが変わるかを知らなかったので、シンポジウム後、学習指導要領の改訂について調べてみた。

新学習指導要領では、国語の科目は以下の6種類ある。*1

  • 現代の国語
  • 言語文化
  • 論理国語
  • 文学国語
  • 国語表現
  • 古典探究

この中の「言語文化」は単位数が2で必修の位置づけである。
この科目では、以下のようなことを教えるとある。*2

(1) 言葉の特徴や使い方に関する次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ウ 我が国の言語文化に特徴的な語句の量を増し,それらの文化的背景について理解を深め,文章の中で使うことを通して,語感を磨き語彙を豊かにすること。
本歌取りや見立てなどの我が国の言語文化に特徴的な表現の技法とその効果について理解すること。

(2) 我が国の言語文化に関する次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ウ 古典の世界に親しむために,古典を読むために必要な文語のきまりや訓読のきまり,古典特有の表現などについて理解すること。
エ 時間の経過や地域の文化的特徴などによる文字や言葉の変化について理解を深め,古典の言葉と現代の言葉とのつながりについて理解すること。
オ 言文一致体や和漢混交文など歴史的な文体の変化について理解を深めること。

上記のようなことを、古文、漢文(40-45単位時間)、近代以降の文章(20単位時間)を使って学ぶ科目である。

飯倉氏の定義する「新しい古典の授業」と文科省が定義する「言語文化」にはいくつか違いはあるものの、かなりの部分で類似点が見られる。飯倉氏の提案は、改訂された学習指導要領の方針と概ね同じであるように思える。
しかし、飯倉氏の提案する新しい古典科目ではその目的を「現代文を理解するためのもの」と位置づけている一方で、言語文化はその名前の通り、あくまでも古文や漢文を通じて日本の言語文化を学ぶことが目的であるようにも見える。この点には違いがある。
正直なところ、国語教育について詳しくない私には飯倉氏の提案も言語文化もほとんど同じに見える。
また、従来の古典の単位数が古典A(2)、古典B(4)で6単位、改定後は言語文化(2)、古典探究(4)で6単位であることを考えると、高校教育における単位数という意味では現状維持であり、大きな危機感を覚えるようなことなのだろうかと疑問に感じた。
ただ、飯倉氏をはじめ、シンポジウムの会場にいた国語教育の関係者は、言語文化の内容や古典探究と合わせた単位数の関係など十分承知であるはずである。
何か私には認識できない違いや問題があるのかもしれない。

この言語文化という新しい科目は、以下のような目的意識のもとに定義されているようである。*3

古典を読み味わうためには,古典を理解するための基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けていなければならないことは言うまでもない。しかし,従来その指導を重視しすぎるあまり,多くの古典嫌いを生んできたことも否めない。そこで,指導においては,古典の原文のみを取り上げるのではなく教材に工夫を凝らしながら,先人のものの見方,感じ方,考え方に触れ,それを広げたり深めたりする授業を実践し,まず,古典を学ぶ意義を認識させ,古典に対する興味・関心を広げ,古典を読む意欲を高めることを重視する必要がある。そして,そのような指導を通して,古典を理解するための基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けさせていくことが大切である。

「古典を理解するための基礎的・基本的な知識及び技能の指導を重視しすぎるあまり、多くの古典嫌いを生んできた」という問題意識は、シンポジウムの中でも肯定派から述べられていたと認識している。

この問題意識を受けて、言語文化の指導の際には、以下の点に留意するように新学習指導要領中に記載されている。*4

文語のきまり,訓読のきまりについては, 体系的に取り上げたり,詳細なことにまで及んだりすることなく,「読むこと」の指導に即して必要なもののみを扱うとする考え方は従前と同様である。加えて,今回の改訂では,文語のきまりや訓読のきまり,古典特有の表現を「古典を読むために必要な」ものに限定するとともに,これらの指導が「古典の世界に親しむため」であることを示している。
したがって,文語のきまりなどを指導するために,例えば,文語文法のみの学習の時間を長期にわたって設けて体系的に指導することのないよう留意する必要がある。漢文の訓読のきまり,古典特有の表現の指導の場合も同様である。

このように、知識、技能を重視しすぎた指導とならないように留意するような配慮がなされている。

肯定派、否定派で合意できるかもしれないこと

これらの事実から考えて、肯定派、否定派で以下のことには合意できるのではないかと考えた。

  • 従来の古典科目が文法などの「古典を読むための技術の習得」を重視しすぎている
  • 従来の古典科目の学習内容から必要な部分を抽出、改変して独立した科目とし、それ以外の応用部分を学習する従来の古典科目の優先度を下げる

従来の古典教育の問題点

言語文化科目新設の目的意識の部分で引用したように、文科省は従来の古典教育の知識、技能重視な点を問題視している。これは肯定派も同様であることは先に述べた。

一方で否定派の「古典は現代語訳で十分」という主張は、古典そのものを学ぶ必要性については否定しておらず、それを原典のまま学ぶことを疑問視している。
これは、原典の古文、漢文のまま理解するための知識、技能教育が中心となっていることへの問題意識が背景にあるのではないだろうか。

だとすれば、従来の古典科目が文法などの「古典を読むための技術の習得」を重視しすぎているという点は双方で合意できる可能性がある。

古典科目の再定義

「古典を読むための技術の習得」を重視しすぎているという点で合意できれば、「では古典をどう学べばよいか?」という議論ができる。
双方が古典を読むための技術の習得を中心とした従来の古典教育に問題意識を持っていること、否定派は古典を学ぶことそのものは否定していないことから、技術の習得を中心としない古典を学ぶための新しい科目を新設することには合意できるかもしれない。
加えて、高度な技術が必要な文学作品を学ぶ従来の古典に相当する科目の優先度を下げることには双方合意できるのではないだろうか。

新学習指導要領の「古典探究」の「性格」の項でも、「古典探究」は「言語文化」によって育成された能力のうち、「伝統的な言語文化に関する理解」をより深めるものと位置づけられている。*5
飯倉氏の提案でも、新学習指導要領でも、従来の古典科目に相当するものは応用という位置づけにするという点では共通しているように思われる。

まとめ

肯定派、否定派双方で合意できるかもしれないことについて述べた。

しかし、合意できたとしても、言語文化の学習よりも議論やプレゼンする能力の方が優先度が高いという私の基本的な考えは変わらない。
新学習指導要領の「国語科改訂の主旨および要点」では、小学校から高校までの国語科の課題に関して、以下のように述べられている。*6

中学校では,伝えたい内容や自分の考えについて根拠を明確にして書いたり話したりすることや,複数の資料から適切な情報を得てそれらを比較したり関連付けたりすること,文章を読んで根拠の明確さや論理の展開,表現の仕方等について評価することなどに課題があることが明らかになっている。
高等学校では,教材への依存度が高く,主体的な言語活動が軽視され,依然として講義調の伝達型授業に偏っている傾向があり,授業改善に取り組む必要がある。また,文章の内容や表現の仕方を評価し目的に応じて適切に活用すること,多様なメディアから読み取ったことを踏まえて自分の考えを根拠に基づいて的確に表現すること,国語の語彙の構造や特徴を理解すること,古典に対する学習意欲が低いことなどが課題となっている。

中学校では「伝えたい内容や自分の考えについて根拠を明確にして書いたり話したりすること」、高校では「主体的な言語活動の軽視」、「自分の考えを根拠に基づいて的確に表現すること」が課題とされている。
中学、高校を通じて、「自分の考えを根拠に基づいて的確に書く、話す能力」の習得が課題となっていることが分かる。
「古典嫌い」という表現もあるが、総合して考えれば、「自分の考えを根拠に基づいて的確に書く、話す能力」に関連したプレゼン能力の改善がより大きな課題であり、その習得を優先すべきだと考えられる。

また、飯倉氏の提案でも言語文化でも、主催者の勝又氏が述べていた以下の観点での回答が十分か、といえば私個人としては疑問である。
この点は、飯倉氏の述べる「国語力」という観点で、「古典教育がどのように国語力に寄与するか」について肯定派、否定派で議論すればよいと思う。

まだまだ議論すべき点はあるが、このエントリで述べたことについての合意ができれば、一歩前進かもしれない。