「古典は本当に必要なのか」シンポジウムに参加して感じた古典の単位数が減る理由

明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」に参加してきた。
このシンポジウムに参加して、「なぜ学習指導要領の改訂で古典の単位数が減っているのか」について思うことがあったので、それを書きたいと思う。

動画
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動画を視聴した方の書き起こし
xiao-2.hatenablog.com

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議論の対象

注目を集める、という意味ではこのシンポジウムのタイトルはよいと思うが、このタイトルでは議論の対象となるものがあいまいなので、はっきりと定義したい。

このシンポジウムの議論の対象は、高校3年間で、古い時代の文学作品を原典のまま(古文漢文表記のまま)学ぶ必要があるのかである。*1
よって、徒然草源氏物語論語などの文学作品を現代語訳で学ぶ必要性については否定していない。
また、必修科目でなく、選択科目として学ぶ選択肢を残すことを否定していない。

以降、古い時代の文学作品(古典)と区別するため、「高校の授業の科目としての古典の授業」のことを「古典探究」(学習指導要領の科目名から引用)と表現する。*2

筆者の立場

筆者は「否定派(古典探究を必修科目で学ぶ必要はない)」である。
いきなり単位数を0にしろとまでは言わないが、削減してかわりに優先度の高いもの(議論する能力、自分の意見を伝える能力)を学ぶべきという考えである。 ただし、理想としては単位数を0にして他のものを学ぶべきだと思う。

なぜ古典探究の単位数が減るのか

シンポジウムに参加して感じたのは、古典探究の単位数を減らすべきではないという肯定派が、古典探究不要と考える否定派に有効な反論をしてこなかったからというものである。

実は、この点はシンポジウムの冒頭で、主催者の明星大学の勝又氏から述べられている。*3

古典研究、教育は危機に瀕している。雑誌の廃刊、学会の高齢化、入試改革で古典が外れるなど。四半世紀前からは想像できない状況。一方、古典研究の意義を訴える書物やシンポジウムも多く現れた。しかし多くは守る側の論理を一方的に振り回したもの。理系、経済、行政の人たちにその言葉は有効な反論たりえたか。その声は届いたか。
いま求められるのは、古典不要と考える人の声に耳を傾け、逃げずに真摯に反論すること。SNS上では対決的議論は多いが、しかし多くは自称成功者による一方的な発言。感情交じりに投げ返しても発展的でない。そこで今回、古典否定派を自称してはばからない、大学と企業の研究者を招いた。お二人の言葉に耳を傾け、ここで議論を深めよう。

趣旨として、「古典不要派の意見に有効な反論をすべき」というものが掲げられていたにも関わらず、私にはシンポジウムで有効な反論がなされたとは感じられなかった。

「有効な反論」とはなにか

この問題における「有効な反論」とは、以下のような反論であると私は考える。

  • 議論のスキームにしたがった反論
  • 「優先度」の概念を利用した反論

議論のスキームにしたがった反論

議論とは、参加者がお互いの意見を聞き、それぞれの意見に反論を重ねることで、よいよい策を見つけ出す作業であると理解している。
このシンポジウムであれば、否定派の主張である「古典探究の授業を減らすべき」に対して、現状維持なのか、増やすのか、減らすのか、選択科目にするのか、などのよりよい案を互いに意見を交わして模索することである。

しかし、後半セッションの冒頭で、肯定派、否定派の先生方がそれぞれ自論に補足を加えたあと、司会の大阪大学の飯倉氏が「肯定派の先生方、否定派の主張に対してなにか反論はありますか?」と話をふったとき、肯定派の先生方は「反論は特にない」と返答した。*4

これには正直がっかりした。

このシンポジウムの趣旨をどれだけ知らされていたかは分からないが、「逃げずに真摯に反論すること」を趣旨に掲げているにも関わらず、反論しないというのは論外である。
穿った見方かもしれないが、「どうせ反論しても分からない」「議論してもムダ」といった不誠実な態度を感じた。
反論をしなかった点は、カチンときた。
そのあとのフロアからの質疑応答で私が最初に指名されたとき、「反論しないということは、否定派の主張を認めるということになるが、それでいいのか?どういうことか?」と質問しかけたが、感情的になりそうだったのでやめた。

その一方で、否定派の先生方は、「相手の主張に対して反論する」という議論の基本的なスキームを押さえた主張がされていた。
「古文でないと伝わらないものがある」という一般論に対する反論、シンポジウムの中での肯定派の先生の発言を受けての反論がなされていた。

「優先度」の概念を利用した反論

高校生に学んでほしいことはたくさんある。
しかし、高校3年間の必修の単位数は限られている。
このような制約がある限り、この問題について論じる際には「優先度」の概念が必要不可欠である。

ところが、肯定派の先生方の主張は「古典は素晴らしいものである」「古典を学ぶとこんないいことがある」というもので、優先度の概念はなかった。
古典探究を高校で教えるのが素晴らしいのはその通りである。しかし、それは他の科目も同じである。
限られた単位数の中で、古典探究の授業をもっとやるべきと主張するのであれば、「○○という観点から、国語表現と比べて古典探究の方が優先度が高い」といった説明をしなければならない。

否定派の先生方の主張には、優先度の観点があった。
時間は有限であるという前提のもと、古典文学は現代語で学べば十分であり、原典のまま学ぶ古典探究の授業の優先度は相対的に低いという主張である。

必修の単位数は限られているという制約があるにも関わらず、単に「古典探究は重要」とだけ主張しても反論にはならない。

まとめ

古典探究の単位数が減る理由は、主張の内容の論理的妥当性や説得力以前に、肯定派が「有効な反論ができない」ことが原因ではないだろうか。 普通は、「有効な反論」を双方行った上で、どちらの論が妥当か、説得力があるかを考慮し、どちらに分があるという判断を下すが、肯定派、否定派のうち、一方が「有効な反論」ができないのであれば、「有効な反論」をした方の主張が通るのは当然である。

否定派の先生方は、「古典探究よりも、議論やプレゼンの能力を学ぶべき」と主張されていた。
皮肉にも、肯定派の議論やプレゼンの能力不足によって、否定派の主張の正当性を証明してしまっているように感じた。

古典探究の科目数の減少は、古典の研究をしている大学教員、学校の教員にとっては、自らの存在意義を脅かされるように感じるのかもしれない。
また、否定派の先生方の発言の中に「古典探究いらないだろ」という思想が見え隠れして、なにかバカにされているような印象を受け、感情的になったのかもしれない。
そのような感情がこのような不適切な反論を招いている可能性もある。

しかし、「有効な反論」ができなければ、これからもどんどん古典探究の科目数は減るのではないか。
それどころか、古い時代の文学作品を学ぶ古典の存在意義が危うくなってしまうのではないか。

古典探究の科目数減少に危機を感じている方々には、もう少し冷静になってもらいたい。

*1:公式に議論の対象を明確に定義したわけではないので、多少のブレはあるかもしれない

*2:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2018/04/18/1384662_3.pdf

*3:書き起こしをしてくれた方のブログエントリから引用した https://xiao-2.hatenablog.com/entry/2019/01/14/201906

*4:動画の2:07:50頃